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「ダメなものは、ダメなのである!」理不尽な親のススメ!?(会津藩校日新館十訓:会津什訓) [「家族」とともに]


 前の記事に引き続き、思いっきりプライベートネタで恐縮です。

 

 

山本大成 「かわら屋の雑記帳」「とーちゃん、大嫌ーいっ!!」 瞬間動揺が走りました
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-06-09

 

 数ヶ月前、絵本を持ってトイレに行こうとした長女に対し
「トイレに本を持って行ってはいけません!」と制止しました。

 すると娘がこう答えました。
「とーちゃんも、本や新聞を持ってトイレに行くじゃない!?」

 

 そうです、私はトイレに本を持ち込む人だったのです。
(トイレどころか一人でお風呂にはいるときには、風呂にさえ持ち込む「活字中毒者」です。:おかげで本は消耗品、読み終える頃はボロボロで片っ端から捨てています。)

 瞬間、私はぐうの音も出ないほど娘に打ち負かされました


 鬼嫁(?)と、育児の方針を話したことがあります。

 鬼嫁の考え方は、闇雲に叱ったりはせず必ず理由を説明をして、納得させた上で制止をすると言うものです。

 私としてもおおいに賛同できたので(その時はそんな気がしました....。)、以後そのやり方でいこうと心がけていました。

 

 しかし、実生活で辛い局面がしばしば現れます。

 子供達が玄関先で靴を脱ぎ捨てていると叱りますが、実は一番靴を脱ぎ散らかしているのは、他ならぬ「私」です。

 「ごめんなさい」や「ありがとう」をキチンと言える子に育てようと指導していますが、実は我が家で一番それが言えないのは当の「私」や「鬼嫁」だったりします。

 

 子の振りを見ながら我が振りを直せれば勿論それが一番なのですが、残念ながら私は人間がそれほど出来てはおらず、また染みついた挙措動作でもあり、いつまで経っても直りません

 美しくないので子供にはトイレで絵本を読んで欲しくはありませんが、かといって私はトイレに本を持ち込むのをやめる気はありません。

(自分自身が直せたらよいと思うことについて、努力を放棄するわけではありませんので、誤解無きようにお願いします。)

 

 じゃあ、「親が出来なければ子供も出来なくて良いのか?」と言うと、決してそうではないはずです。

 むしろ挨拶なんか、親が出来ずに悔いていることの幾つかをせめて子供には出来るようにしておいてあげたいとの思いで、子供に要求する場合だってあるわけです。


 ちょうどその頃「国家の品格」でベストセラー作家になった藤原正彦さんの本を読み返していて、会津藩校「日新館」において教えられてきた「会津十訓」が紹介されており、その最後に書かれていた「ならぬものはならぬのです」という一文に目が止まりました

 世の中には理屈云々で語れない様々な行動規範やルールがあり、理屈をあれこれ捏ねるのではなく歴然としてはいけないことは存在しており、「ならぬものはならぬのです!」と言うことなのだと理解しました。

 

 私がそこで思ったのは、子供を躾けたり、叱ったりする場面では、時として理屈を度外視した世界があっても良いのではないのか?と言う点。

 

 勿論程度問題はあるでしょうし私には到底真似出来ませんが、機嫌によってちゃぶ台をひっくり返す親だってちゃんと子供は育つわけだし、私自身筋道立てて理屈を聞いた上で叱られたり躾をされてきたわけではありません

 また、育てる側である「親」と、育てられる側である「子供」とでは歴然とした立場の違いがあり、同一目線で子供と五分の話をする必然性についても疑問を持ちました。
(「とーちゃんも○○をするから、お前もやりなさい」なんてノリは絶対に変です)

 

 以後、子供を叱る際に「ダメなものはダメなのである!」のフレーズを時々使うようになりました

 最初の頃は、とーちゃんの変化に子供も戸惑っていたようですが、最近では違和感なく受け入れるようになってきました。

 



 つい最近、4歳の長女「青葉」が2歳下の弟「立夏」がハサミで遊んでいるのを危ないからと注意する際に、4歳児の言葉ではうまく説明できなかったようで「ダメなものはダメなのである~ぅ!!」と、とーちゃんの口調をそのまま真似して、弟からハサミを取り上げていました

 

 近くで見ていた私は、吹き出しそうになるのを我慢しつつ、娘も とーちゃんの胸中を多少なりとも理解してくれたに違いないと、胸をなで下ろしました。

 



PS.
 決して、我が儘な父親の気まぐれを通せるようにしようとしているわけではないつもりです。
 
 「とーちゃんは、自分たちが好きなのだ!」と子供達が確信できているというバックボーンの上でやっているつもりですし、鬼嫁が子供達に愛情を注ぎ込んでいてくれるという前提の元にやれていることだとも思います。

 

鬼嫁とは、「母性」と「父性」での役割分担が必要であるだけで、子供達を慈しむ気持ちに変わりはありません!

(子供達に好かれる鬼嫁に、ちょっと嫉妬を感じる今日この頃です....。)

 

※※ 明らかに私の個人的な私見ですので、ご意見がありましたら反対意見も含めて是非コメント下さい。※※ 

 

 
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PS2.(鬼嫁という呼称について)
 適当な表記が思いつかず「鬼嫁」という呼称を使っていますが、この言葉には尊敬照れが入っているつもりですので、お許し下さい。
(「妻」なんて、恥ずかしくて書けません。強いて言えば「女房」と言う呼称になりますが、どこかピンと来なくて....。)

 


(おまけ1)
 私の父の教育方針、「オレが我が家のルールだ!」でした。
当時の私の印象は、むしろ子供の反応を見ながら右往左往する親よりも、子供心に「筋が通っている(はず?)」と感じていた記憶が残っています。

山本大成 「かわら屋の雑記帳」私の父の教育(人と違うことこそが素晴らしい!)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-11-09

 

(おまけ2)
 我が家で子供達が私を呼ぶときは「パパ」でも「おとうさん」でも「ダディ」でもなく、日本の由緒正しい呼称である「とーちゃん」を採用しています。
 鬼嫁の大反対をかいくぐり、定着に成功しました!

山本大成 「かわら屋の雑記帳」日本の「とーちゃん」は、断固として『とーちゃん』なのだぁ!!
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-06-17-2


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コメント 8

悩ましき諸問題ですね。ならぬものは。。確かにそうだと感じる部分はあります。
子供に対しては特に必要な事かも知れません。
でも最近は大人同士のやりとりでも調子に乗って使う者がいたりします。
説明できない場合の逃げ口上にしか聞こえません。
使い方は誤りたくないものです。
by (2007-06-11 20:23) 

私も大賛成です。自分で出来ることしか子供に指導出来ないんだったら、世の中は世代が変わるたびに“マイナス成長”しちゃいますよね?

あくまで「信頼」がバックボーンにあることを前提に、私も子供には理不尽なくらい「ダメなものはダメ」と、言い続けたい・・・そう思います。
「ダメ」の裏側には、深い子供への愛情が必要であることは、言うまでも無いですけど。
by (2007-06-11 21:38) 

たいせい

 STEALTHさん、子供にダメな理由を説明しても、理解が得られる説明が出来ないことが度々ある事に気づいたのも理由の一つでした。
 また、かつて金美麗さんの講演を聴いて、先生と生徒の関係の話でしたが「教える側と教えられる側の歴然とした立場の違いがある。」「友達感覚の仲良し教室では、生徒は教えられない!」との言葉を耳にしたのも、妙に心に残っていました。

 ただ、STEALTHさんが仰るように、双方互角の関係である大人社会(先輩-後輩や上司-部下という関係にあるにしても、基本的には相手を敬うのが大人社会のはず)にこれを持ち込むのは「横着極まりない」と感じます。
 もっとも、いつか手痛いしっぺ返しがあるように思いますが....。

 nice! &コメント、ありがとうございました!
by たいせい (2007-06-12 09:06) 

たいせい

 まーきんさん、前に記事で書きましたが私の父の教育方針は「オレが我が家のルールだ!」で、ずいぶん理不尽な目にも遭いました。(今にして思えば親父なりの理由は全てありました)
 しかし当時の私の印象は、むしろ子供の反応を見ながら右往左往する親よりも、子供心に「筋が通っている(はず?)」と感じていた記憶が残っています。

 結構難しいことだと承知しつつ、
 「子供におもねる親よりも、理不尽だけど『筋の通った親』を目指したい!」
 「何でも話せる親よりも、困ったときには必ず助けてくれる『信頼のおける親』でありたい!」

 nice! &コメント、ありがとうございました。
by たいせい (2007-06-12 09:21) 

アキラ

家内には勿論のこと、子供達にも「ありがとう」「ごめんなさい」をいいつづけてきました。
今ではクセになっています。
by アキラ (2007-06-12 14:46) 

たいせい

 アキラさん、やはり癖になるまで習慣化ですね。
 私も決して挨拶する気がないと言うわけではなく、子供を指導しつつ自分でも改めつつあります。
 (ただ、長年の習慣でとっさに出るところまではまだ行っていません....。)

 nice! &コメント、ありがとうございます!
by たいせい (2007-06-12 16:41) 

まさ

世の中に出れば理屈で解決しないことがごまんとあります。
又理屈では説明の出来ないことが多々有ります。
教育学者と言われている人は、呵るとき子供に「何故呵るか説明をしなさい」と言います。世の中そんなものではありません。
このような状態だから、携帯電話の学校持ち込みが何故禁止なのかと言ったり、人に迷惑を掛けていなければ何やっても良いと言った考えがおきるのでしょう。
最近の若い親にアンケートしたら、友達のような親子関係が良いと答えたのがかなり居ます。
しかし親子は家庭に於ける上下関係です。
それが友達というのでは、親が子供を教育できるはずがありません。
教育とは知識を与えるだけでなく、不自由な中でも生きていく逞しさと忍耐力を教えることではないでしょうか。
そう言う意味でも「ならぬことはならぬ」と教えるのは子供を鍛えることではないでしょうか。
by まさ (2008-12-28 23:34) 

たいせい

 まささん、自分自身が子育てをしていなければ、恐らくこの言葉はこれほど心に残らなかったように思います。
 子育てというのは、子を育てるという意味以上に」子育てを通して自分自身の成長の機会」をいただいていると言うことを最近強く感じています。

 「理屈で解決しないこと」というと私が印象的に覚えているのは、小学生の時分に学校に機嫌しだいで対応がクルクル変わる「理不尽な先生」が数人いました。
 社会に出ればそんなことは日常茶飯事で、今にして思えばこの先生とのやり取りを通して「世の中には理不尽な人がいる」という事実を学び、「その対処法」を学んだように思います。
 また私の父も口数が少なく、とてもではありませんが今風の「子供にキチンと納得させる親」ではありませんでした。
 それでも、うちの兄弟は曲がることなく大人になることが出来たわけで、「説明すること」や「子供に恐れられないように仲良くする」ことが子育ての本質とは思えません。
 会津什訓では、そんなことをいろいろ考えさせられました。

 コメント、ありがとうございました!
by たいせい (2008-12-29 08:56) 

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