憲法96条の改正について(憲法記念日に考える) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
全く更新の滞ったBLOGになってしまっており申し訳ありません。
憲法について改正機運が盛り上がりつつありますが、憲法についてはこのBLOGで何度も記事にしているテーマであり、また私自身の当初からの考えが「まず憲法96条を改正し、憲法を国民のものにする」という、まさに現在議論が起こっている論点であったこともあり、憲法記念日のこの機会に再度、過去記事の紹介をさせていただきます。
鯉のぼりの片付け&旗日には日の丸を! [旗日には「日の丸」を掲げよう]
4月初旬から我が家の庭を彩っていた鯉のぼり
今年のGWは妻と子ども達が5月2日~6日(授業参観の代休などもありました)で、妻の実家のある山陰に帰っていました。
ちなみに私はと言うとGW期間中も通常の仕事で、5・6日と連休を貰い妻の実家までお迎えに行き、そして今日8日が休みだったので鯉のぼりの撤収作業を行いました。
今日の記事は、「鯉のぼり」そして久々に「旗日の日の丸」について書かせていただきます。
「終戦の日」について!(「終戦記念日」ではありません。) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
12日から子供たちとともに、山陰の妻の実家に里帰りをしています。
来る道すがら新名神の土山SA手前で冷却水が噴き出しロードサービスのお世話になっていったん帰宅、再度妻の車で出直しなどという波乱の里帰りでしたがこのくだりについては帰宅後の記事に譲るとして、毎年この時期に書いている記事を義父のPCをお借りして今年も書かせていただきます。
一昨年、西名阪 香芝PAで撮った半旗
古くからご覧下さっている方には重複する内容も多々あろうかと思いますが、一人でも多くの方に知っていただいていただきたいと、あえてまた『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』(通称:終戦の日)の記事を書かせていただきます。
(この記事は毎年書いている記事なのですが、一人でも多くの方に知っておいていただきたいとの想いで、GW時期の「日の丸」の記事、勤労感謝の日前後の「国民の祝日・祝祭日意・旗日」についての記事、そしてこの時期の「終戦の日」についての記事は今後も続けて生きたいと思っています。)
「勤労感謝の日」はおかしい?(祝祭日とは?·国民の祝日?·新嘗祭)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-11-22屋根には瓦!、庭には鯉のぼり!、旗日には日の丸!(私の個人スローガン)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2009-05-02
よく、8月15日が「終戦記念日」と一般的に呼ばれています。
数年前、様々な文献で確認したのですが「終戦記念日」なる呼称は存在しておらず、『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』と言うのが正式な名称で、戦没者を悼む意味合いから国旗「日の丸」の半旗掲揚というのが正式な作法(当時の厚生省の通達も残っています)とされています。
毎年この日は妻の実家への里帰りの帰宅日に重なることが多く、高速道路やサービスエリアの日の丸のほとんどは半旗となっており、TV等で紹介される様々な式典の国旗も半旗で掲揚されています。
半旗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%97%97終戦記念日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5(以下、Wikipediaから引用)
8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者給付金等支給法(昭和32年法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。
例年この日は靖国神社が様々な喧噪に包まれる日でもあり、特に近年参拝者も増えていると聞いています。
多くの参拝者の気持ちはそうではないと思っていますが、私は「日本の当時の正当性を表すシンボリックな日」でも、「反戦運動に気炎を上げる日」でもなく、純粋に「後の時代に生きる私たちのために戦う思いを持ち戦没された諸先輩方を、純粋に追悼する日」であって欲しいと思っています。
屋根には瓦!、庭には鯉のぼり!、旗日には日の丸!(私の個人スローガン) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
「風薫る5月」が一年中でもっとも私の好きな季節で、たまたま4月・5月に生まれた長女・長男にもそれぞれ「青葉」「立夏」というこの5月のイメージの名前をあえてつけています。
「爽やかな風」「輝かんばかりの新緑の緑」「長くなった陽と太陽の輝き」、これらの中に身をおくと例えようもないほどの豊かな気持ちを味わうことが出来ます。
そしてその風景の中にはやはり、「鯉のぼり」が欠かせない大切なアイテムだと感じています。
(つかみの三段論法、上手くいったかな?)
我が家の鯉のぼり
BLOGを初めて以来、毎年この時期に「旗日と、日の丸」について記事を書いてきました。
我が家では旗日になると玄関先に日の丸を掲げるのが習慣になっていますが、始めたのは長男が初節句を迎えた3年前です。
男の子が生まれ妻の実家から鯉のぼりをいただき、いざ鯉のぼりを上げる段になって考えたのが「日本の男の子」という感じを如何にして伝えるかと言うことでした。
旗日には、日の丸を掲げねば!(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2006-06-19「満開の桜と鯉のぼり」日本の原風景(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸!)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2009-04-10
その辺りの経緯については話が長くなるのと毎年の記事でもあり割愛しますが、少なくとも私が少年時代に近所の街角で沢山見かけ自分自身の原風景とも思える「旗日にそこかしこに掲げられていた日の丸」を鯉のぼりとセットでこの時期の我が家の風景にしようと思い立ちました。
「昭和の日」-長男と日の丸
「日の丸」を何故忌み嫌う人がいるのか?私には良く理解が出来ません。
「日の丸」というのは日本の国旗であって、右でも左でも日本人だと言うだけで何の配慮も必要なく普通に掲げられる旗のはずです。
むしろ私には、普段国旗について何の意識も持たないのにも係わらずオリンピックやワールドカップなどのスポーツ大会の時だけ「ニッポン!、ニッポン!」などと連呼して皆が日の丸を打ち振るうという雰囲気に強い違和感を感じてもいます。
(普段は忌み嫌うにもかかわらずこの時だけ豹変する姿は、とても見苦しいと感じています。:マスコミなどもそうですね。)
「満開の桜と鯉のぼり」日本の原風景(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸!) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
毎年4月はじめの日曜日に、鯉のぼりを上げ始めます。
今年も4月5日に半日がかりでポールを組み立て、妻の実家からいただいた鯉のぼりと私の両親から貰った武者のぼりを上げました。
今年の「桜と鯉のぼり」
ちょうど我が家の桜が満開になった日でもあり、何とも言えない風情を感じました。
私は鯉のぼりが大好きです。
自分自身の子供時代は庭のない家に住んでいたこともあり鯉のぼりを家で上げることはありませんでしたが、鯉のぼりが上がっている家に住んでいる友達に憧れを感じ、街中の所々にある鯉のぼりを飽きもせずに眺めていた記憶が残っています。
幸いな事に庭のある家に住むことが出来、結婚し妻が男の子を産んでくれました。
妻の実家の義父さんから、「大成くん。子供の初節句、鯉のぼりと鎧甲とどちらが良いかね?」と聞かれた際には、当然二つ返事で「鯉のぼりをお願いします!」と速答しました。
送って下さった鯉のぼりを見てびっくり!
なんと5mもの大きな金箔付きの鯉でした。
早速10mのポールを買いに行き、庭に穴を掘ってコンクリートの基礎を造り急いで上げたのは言うまでもありません。
右は私の父から贈られた「武者のぼり」
すると私の方の父も「俺は武者のぼりを贈る!」と言いだし、以来我が家の4月には鯉のぼりと武者のぼりは欠かせないアイテムとなりました。
最初の頃は子供達も鯉のぼりと言っても何のことか解らない風でしたが、年を重ねるに従い毎年4月が来て我が家の庭に鯉のぼりが泳ぐのを心待ちにしています。
上がった鯉のぼりの前で早速遊ぶ、長男「立夏」
恐らく私の住む高浜市で市街地の中で上げられている鯉のぼりとしてはうちの鯉のぼりが一番大きな鯉で、「あの大きな鯉のぼりの家の子」とか言われることも時々あるらしく、子供のプライドをくすぐる部分もあったようです。
また毎年子供の日にかけて、道の向こうから遠巻きに眺めにいらっしゃる家族連れなども毎日何組かあります。
というのも少子化の影響か?、街中で鯉のぼりを上げている家自体がとても少なくなりましたね。
ちなみに我が家は、鎧甲などの内飾りなどは一切ありません。
贈っていただいた鯉のぼりのみの一点豪華主義で(つまりは他力本願)、親の甲斐性は全くありませんので誤解無きようお願いいたします。
クリスマス時期、子供達の「イルミネーションやりたい!」の声には、「うちは春の鯉のぼりだ。うちの鯉のぼりをみんなに見て貰うかわりにイルミネーションはお隣さんに見に行こう」など、情けないことを言っています。
なんだかそれらしい写真が撮れてしまいましたので、何枚も撮影です
田母神敏雄 前航空幕僚長-岡崎講演会 本編 「わが国はいい国ではないのか」 [旗日には「日の丸」を掲げよう]
私のスタンスについての前置きの記事が長くなってしまいましたが、いよいよ2月28日(土)に行われた田母神前空幕長-岡崎講演会本編です。
壇上で花束を受け取る田母神前空幕長
田母神前空幕長-岡崎講演会プロローグ「近現代史について私のスタンス」(追記有り)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2009-03-13
この講演会は事前の紹介記事で書かせていただいたように杉田謙一さんという岡崎市内在住の個人が呼びかけ「岡崎の教育を考える会」という運営組織を立ち上げ手弁当で開催したもので、講演会の趣旨そのもの以上に杉田さんの熱い思いと実行力に対し感動しました。
「田母神前空幕長-講演会」が2月28日岡崎であります!
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2009-02-13草莽の記 杉田謙一BLOG(主催者代表 杉田さんのBLOG)
http://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/
その事もあり、杉田さんより「人手が足らず、時間がもし取れるようであれば早めに来て手伝って欲しい」と聞いていましたので、友人のS君と一緒に1時間半ほど早く会場入りして会場整理のお手伝いをさせていただきました。
(とは言っても大したことはしておらず、お弁当をご馳走になるなどかえってこちららの方が恐縮してしまいました)
講演会風景
当初当日の二週間程前参加を電話にて連絡させていただいた際、思っていた以上の反響で会場に入りきれないほどの人が集まるかもしれないと聞いていましたが、当初300人を予定していたという会場は、事前申し込みなどで思っていた以上に大きな反響に400人分の椅子を並べたにも係わらずほぼ満席状態でスタッフを含めて420名ほどの来場者で、非常に熱気の感じられる講演会でした。
来場者はやはり男性が多い傾向でしたが年齢層的には30代からお年寄りまで幅広い年齢層で、田母神前空幕長に対する世代の垣根を飛び越えた関心の高さが伺えました。
お手伝いをさせていただいた会場整理の際に感じた来場者の印象ですが、非常に礼儀正しく主催者側の事情をわかってくださる来場者が多いとの感想を持ちました。
具体的には青年会議所の現役時代など講演会やセミナーなどの設営に係わってきた経験が何度もありますが、その際の来場者に比べて「混んでいますので前から詰めてお座り下さい」との声に非常に素直に従っていただけ、開会後の私語等も全くなく会場整理の手間もほとんど掛かりませんでした。
講演の内容は、いわゆる「田母神論文」を主軸に大東亜戦争後の歴史を年代順に紐解きながらそれが「現在の国民の意識」や「政治と自衛隊との関係」「防衛に関する日本が抱えるジレンマ」などとどう係わっているかを訥々と語るという形で行われました。
主題は勿論「我が国はいい国ではないのか?」ということで、「田母神論文」について私自身はじめから違和感なく受け取っていたこともあり歴史観についてはさほど目新しい内容ではないと感じられましたが、話の中で引用される事柄や自らに係わるエピソードなど大変興味深い内容を幾つも耳にすることが出来、大変良い講演会だと感じました。
演壇で訥々と語る田母神前空幕長
田母神前空幕長の話で私が一番感じ入ったのは、更迭直後のTV出演でもそうだったのですが更迭劇の内幕についてほとんど語らず、天下国家の話のみに終始していたこと。
これまで前例のない深夜の更迭劇、官舎からの即日退去の要請、部下との別れの場面すら認められなかった(挨拶の機会自体を奪われた)などの話を聞いており、また守谷事務次官失脚後の防衛省内の足の引っ張り合いに端を発する陰謀説も耳にする中、当然田母神前空幕長にはそれなりの主張があるはずだし自らの立場を明快にするためにも常人であれば自己弁護があっても良さそうなものであるにかかわらず、全くこの種の話はありませんでした。
(一部シビリアンコントロールの話の中で自らの状況で説明した部分があったのみ)
自らに起こったことを語ると今回の事件が更迭劇という部分のみに矮小化して受け取られる可能性があり、田母神前空幕長がもっとも訴えたかったはずの歴史認識の問題や自衛隊の位置づけの問題などの大きな問題から離れてしまう可能性があるとの判断で自己抑制をしていらっしゃるように私には感じられました。
講演会の中ではこんな一言を仰っていました。
「自らの更迭について当初は怨んだが、講演会に来てくださる方達の熱気を感じ今はかえって良かったと思っている。」
「近現代史について私のスタンス」田母神前空幕長-岡崎講演会プロローグ(追記有り) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
随分遅い記事にはなってしまいましたが、2月の28日(土)に岡崎で行われた田母神元空幕長の講演会に行ってきましたので、その際の感想などを数編の記事にさせていただきます。
岡崎講演会での田母神前空幕長
「田母神前空幕長-講演会」が2月28日岡崎であります!
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2009-02-13
この種の記事を書くと「この人は右翼だ!」「この人は左翼だ!」などと入り口の部分で毛嫌いされる方もいらっしゃるでしょうから、自分自身がこの種の近代史にどうして興味を持つようになったか?、この講演会に何故行こうと思ったか?という部分から書き始めさせていただきます。
このBLOGでも何度書かせていただいておりますが、私の母方の祖父は終戦の年にフィリピンで戦没しています。
少年時代、母と一緒に里帰りする度に祖父と同じく戦地で戦った大叔父(祖父の弟)から聞かされてきたのは、
「お前達のおじいさんは自分で進んで前線に出て戦った立派な人だった!(志願して大陸から南方に向かったそうです)」
「近衛部隊に配属されるほど優秀な人だった」ということで、
当時学校などで教えられたりマスコミなどの戦争に関する報道に対して違和感を感じ続けてきました。
自分なりに納得したいとの思いと、祖父の辿った道を多少なりとも理解したいとの思いがあり様々な本を読み漁りましたが、著者の立場や考え方によって同じ戦争を書いているはずであるにもかかわらず善悪の観点や主張は真っ向から異なり、ますます頭の中は混乱するばかりです。
父が商売屋だったこともあり、言わば「究極のリアリスト教育(理想を掲げた上でと言う前提ですが)」を受けてきたおかげで観念論が頭に入らない考え方を当時より持っていましたので、これらの本より空理・空論や観念の部分を除外して読むことを覚え、結果頭の中で組み上がったのは以下のようなものでした。
その当時の空気に身を置いて当時の価値観で論ずることが出来ないかぎり、立場や考え方により様々な捉え方があって善悪について論ずることにほとんど意味はない。諸外国の当時の要人の公式発言には(特に近隣アジア諸国:米国の軍人・政治家も含めて)、日本を評価する公式発言が予想していた以上に多い。
開戦の経緯についても「やむにやまれず戦争せざるを得ないところまで追い込まれた結果」と言う考え方でも説明できるし「好戦的な軍部によって戦争に踏み切らされた」との解説も不可能ではなく(統帥権云々が絡みます)、結局のところ経緯が非常にわかりにくいが「大多数の国民の支持」の上で戦争に踏み切ったということ。(今風に言えば世論に押されて)
マスコミは私程度にでも見抜ける程度の稚拙な論理矛盾を内包した報道を行っており、何らかの意図に基づいて是が非でも「日本が悪かった」事にしたいらしい。(少なくとも両論併記という、本来持つべき公平な報道機関の姿ではない)
その後自分が拘ったのが出来るだけフィルターの掛からない一次情報に直接触れることで、伝聞情報や意図を持った取捨選択の後に私たちの目に触れる報道や書籍ではなく、実際にその時代を経験された方の話を多く聞いて当時の時代の空気のようなものを感じようと言うことでした。
幾つかの講演会などにも出席し、何人かの地域のお年寄りの話を聞きましたが、やはりその方の立場により様々な捉え方があり、また時間の経過と共にその方達の中の記憶にも知らず知らずのうちに取捨選択がされておりこれも一筋縄ではいかないと感じましたが、その時思い出されたのが少年時代に聞いた大叔父の言葉でした。
今は病没しておりもはや再び聞くことは敵いませんが、大叔父は「自ら戦場に赴いていたことを誇り」に思っていました。
また大叔父を含めて私の知る戦争経験者は、マスコミなどでよく言われているような虐殺や悪逆非道の限りが尽くせるような人間ではありませんし、自分の意志をしっかり持っており自分自身が納得できないことをどんな命令があろうとも出来るような人間ではありません。
望んでいない戦場に上層部の命令で無理矢理送られて戦わさされたという状況での部隊勤務ではなく(勿論死にたくないのは当たり前ですが)、部隊勤務の中でも辛いことや悲しいことは元論あったでしょうが同時に悦びや笑いもそこにはあり、悲喜こもごもの日常だった様子も私には伝わってきました。
一部国家指導者のみが戦争に血道をあげていたのではないと言うことは私の地元でも物的痕跡が幾つも残っていることでも明らかで、日清・日露の戦捷碑や様々な出征記念の地元氏神様などに対する寄進など(私の地元には靖国神社遙拝所なるものまで残っています)、当時の時代の空気は私たちの親類縁者や地域社会の大人達の大半の理解がなければ出来なかったものが幾つも現存しています。
実は私の場合、いわゆる保守と言われている方達の論説に関しても違和感を感じることが少なくはありません。
「終戦記念日」は間違い&オリンピック開会式の福田首相&妻と子の里帰り [旗日には「日の丸」を掲げよう]
このBLOGを始めて2年と少々なのですが、毎年この時期になると書いている記事があります。
古くからご覧下さっている方には重複する内容も多々あろうかと思いますが、一人でも多くの方に知っていただいていただきたいとの思いで、あえてまた『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』(通称:終戦の日)の記事を書かせていただきます。
(後半で、オリンピック開会式での腹立たしい福田首相の振る舞い&中部国際空港からの妻と子のみの里帰りも...。)
昨年、西名阪 香芝PAで撮った半旗
妻と子のみの里帰り
よく、8月15日が「終戦記念日」と一般的に呼ばれています。
数年前、様々な文献で確認したのですが「終戦記念日」なる呼称は存在しておらず、『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』と言うのが正式な名称で、戦没者を悼む意味合いから国旗「日の丸」の半旗掲揚というのが正式な作法(当時の厚生省の通達も残っています)とされています。
毎年この日は妻の実家への里帰りの帰宅日に重なることが多く、高速道路やサービスエリアの日の丸のほとんどは半旗となっており、TV等で紹介される様々な式典の国旗も半旗で掲揚されています。
半旗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%97%97終戦記念日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5(以下、Wikipediaから引用)
8月15日は玉音放送の放送日にすぎなかったが、引揚者給付金等支給法(昭和32年法律第109号)は8月15日を終戦の基準とし、引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(昭和42法律第114号)は8月15日を「終戦日」と呼んでいる。1963年5月14日の閣議決定により同年から8月15日に政府主催で全国戦没者追悼式が行われるようになり、1965年からは東京都千代田区の日本武道館で開催された。1982年4月13日、8月15日を「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」とすることが閣議決定された。現在ではこの閣議決定に基づいて毎年8月15日に全国戦没者追悼式が行われている。
例年この日は靖国神社が様々な喧噪に包まれる日でもあり、特に近年参拝者も増えていると聞いています。
多くの参拝者の気持ちはそうではないと思っていますが、私は「日本の当時の正当性を表すシンボリックな日」でも、「反戦運動に気炎を上げる日」でもなく、純粋に「後の時代に生きる私たちのために戦う思いを持ち戦没された諸先輩方を純粋に追悼する日」であって欲しいと思っています。
私の母方の祖父は、終戦の年にフィリピンで戦没されたようです。
子供の頃敬愛する大叔父から何度も聞かされてきたのは、「次の時代を生きるお前やお母さんのために自ら進んで戦った立派な人だった」ということで、今の自分の誇りの源泉にもなっています。
我が家以外にも当然そんな方達が日本中に沢山いらっしゃったはずですし、またその方達を送り出したのは国家云々以前に直接的には地域社会の方達で、偶々生き残った方、戦没された方と分かれたに過ぎません。
私の住む高浜市の春日神社には「靖国神社遙拝所」がありますし、日本中の多くの神社には「護国神社」の祠が地域社会の手によって作られ守り続けているはずです。
また、各県にはそれぞれの護国神社があります。
8月15日というと、やもするとイデオロギー的に非常にシンボリックな日と捉えられがちですが、純粋に今を生きる私たちのために戦没された方達を悼む気持ちで、これらへの参拝というのがもう少し見直されても良いように思います。
ともすると『情』の観点が置き忘れられつつあるような気すらしますので...。
8月15日に某インターで日の丸の半旗
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2006-08-18「終戦の日」の国旗は、「半旗」が作法。(正式呼称は『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』:「終戦記念日」ではありません!)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-08-11地元神社の靖国神社遙拝所続報&護国神社の祠(初詣)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-01-05地元の神社の靖国神社遙拝所
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2006-06-24
「オリンピック開会式での福田首相」
先日北京オリンピックが開幕となりました。
あえて記事にしようとは思っていませんでしたが、私の知る限りどなたもこの観点に触れられていらっしゃらないようなので、私が感じた福田首相の腹立たしい振る舞いについて書かせていただきます。
北京オリンピック開会式での選手団入場の際のことです。
開会式に招かれた他国の国家元首は、自国の選手団入場の際には当然のことのように起立し自国の選手達に手を振ってエールを送っていました。
しかし我が国の福田首相のみは、着座のままふんぞり返って選手団を眺めるといった風情で、北京まで来て日の丸の元に戦う選手団に対する「情」というものが全く感じられません。
あのお方は何のために北京にまで行ったのか?と、無性に腹立たしい気持ちになりました。
普通の日本人でそこに居合わせたのなら、自国への情で普通の人でもすることが出来ない首相。
首脳外交も確かに大切なのかもしれませんが、それ以前に首相として当然行わねばならないことが出来ないようでは、話にも何もなりません。
愛国心を子供に教える云々以前の問題と感じ情けなくなりました。
できれば下にURLを貼った記事を読んでいただきたいのですが、私は基本的に外交や様々な政治決断は結果をもって判断すべきモノで途中経過で判断できないという考え方を持っています。
懐かしい仲間達との再会「2004年度日本JC 新・国家アイデンティティ創造委員会同窓会」 [旗日には「日の丸」を掲げよう]
2000年から2004年までの5年間、地元高浜市にある高浜青年会議所(高浜JC)に所属し、青年会議所活動を行っていました。
先週千葉に出張した最終日である21日土曜日に、2004年度当時出向していた日本青年会議所 新・国家アイデンティティ創造委員会の同窓会が東京-赤坂見附であり、久しぶりに全国から集まった懐かしい仲間達と再開し楽しい時間を過ごしました。
04日本JC 新・国家アイデンティティ創造委員会同窓会
青年会議所については、昨年末にやはりこの委員会(2004年度日本JC 新・国家アイデンティティ創造委員会)の中の私が所属していた第2小委員会の同窓会の記事を書いた際に触れてありますので重複を避けますが、 単なる二代目三代目のボンボンどもが飲んで騒ぐための団体ではなく、自己研鑽を積みながら「社会への貢献」などとの看板を掲げ議論し事業を行う団体で、加入していた当時の記憶は今の私にとって宝物のような時間です。
青年会議所の思い出「2004年度日本JC 新・国家アイデンティティ創造委員会 第2小委員会同窓会」
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-12-18
冒頭の写真で写っていなかった2名(Mさんはどこに消えたの?)
この年の出向で「自分自身が日本人で、日本国民なのだ」と言うことを、強く感じ学ぶことが出来ました。
この言葉のみを見れば、何を当たり前のことを言っているのだろうかと感じられるかもしれませんが、この年までの私は「漠然とした日本人」ではあっても「日本国民」ではなかったように思います。
「あれこれ理屈をこねるのではなく、自分に出来ることを自分自身でする」をモットーに、少なくとも地域に関しては様々なことを考え仲間と一緒に「選挙時の公開討論会」や「市町村合併問題」など様々なことに取り組んできたつもりだったのですが、私の思考範囲はせいぜい都道府県止まりで、日本について考えたり議論する際にはどこか当事者ではない第三者的な立場で評論家的な視点にしか立っていないと気付かされました。
日本国民である以上、地域社会の問題と同レベルで日本のことを自分のこととして考え、地に足をつけた形で自分に出来ることをしなくては「日本国民」と胸を張って言えないのだと感じさせられました。
(主権者である国民それぞれが国に関わる問題を自分自身のこととして考え、日本国について責任を持たなければ、国と言う集団は直ぐに消え去ってしまいます。)
国の進路を決める方も決して雲の上の存在でもスーパーマンでもなく時に間違いもありますし、私レベルの一国民であっても筋が通ったことを声を大にして呼びかければ、トップに声は届き、政策に影響を与えることも出来る。それをするのが有権者である私たちの責任でもあると考えるようになりました。
(決して為政者に対して不平不満をあげつらうという意味ではなく、日本国を構成する国民の一人として政治に参加するという意味です。:このBLOGで時々扱う国政への働きかけなども、この辺りの意識が影響しています。)
ともすると酒の場などで大人が集まって国の話をすると、青臭くてなんだか恥ずかしいような思いに囚われることもありがちですが、決して恥ずかしいことではなく、むしろノンポリ(ノン・ポリシー)であることの方が恥ずかしいことです。
旗日には、やっぱり「日の丸」を!(日本の男の子・祝祭日・国旗) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
我が家では長男が生まれた三年前から、「日本の男の子」という感じを子供達にどう伝えるかと言う点で思い立ち、鯉のぼりを揚げるのと同時に旗日の「日の丸」掲揚をはじめました。
我が家の鯉のぼり
旗日には、日の丸を掲げねば!(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2006-06-19昨日「鯉のぼり」をあげました。(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-04-02
よく考えてみると、少年時代は旗日には街中の至るところに「日の丸」が掲げられ、私自身少年時代の原風景の一つとなっていました。
また、サッカーやオリンピックなどスポーツの国際大会の時にだけ「日の丸」を大事にし、普段は全く顧みられることのない風潮に違和感を感じていたことも、実際に我が家で掲げ始めることの切っ掛けになったように思います。
当初は右翼だと思われると嫌だとかそんなことも多少頭を過ぎりましたが、始めてみるとさほどでもなく、何人かの友人から「どこで買ったか教えて欲しい!」等の声も聞かれ、近所のとある家では年季の入った「日の丸」が掲げられる様になるなど(ひょっとしたら私が気付かなかっただけかもしれません)、私の周りでは少しずつ旗日に「日の丸」を掲げる家が増えてきました。
我が家の日の丸
「昭和の日」 町内に「日の丸」を掲げた家を見つけました!(旗日には日の丸を掲げよう)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-04-30
また、自分自身がこういう行動を取ることによって改めて旗日や祝祭日の意味なども勉強し考えるようになったのも自分にとっては収穫だと思っています。
祝祭日というのは、国家にとって節目になる日を国民がこぞって祝う物で、国民を休ませるために設けられた単なる休日ではありません。(世界各国、どこでもそうです。)
そう考えると、ハッピーマンデーとか何のための祝祭日だか解らない祝日はなんだかおかしいし、○月の第○日曜日なんて祝祭日の決め方は私にはどうにも理解できません。
「国民の祝日」って国民のもの?(勤労感謝の日に思う)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2006-11-23「勤労感謝の日」はおかしい?(祝祭日とは?·国民の祝日?·新嘗祭)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-11-22こんな事も知ることが出来ました
「終戦の日」の国旗は、「半旗」が作法。(正式呼称は『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』:「終戦記念日」ではありません!)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2007-08-11
私自身は一つ一つの祝祭日の度に「日の丸」掲げると言う行為を子供と共に行い、その日の意味をちゃんと説明するように心がけています。
その過程で、おかしな祝日だと気づいた日が何日もありますし、例えば「憲法記念日」なども日本が近代憲法を持ったのを祝うのであれば、明治憲法発布日の方が適当なのではないか?とか、憲法を考える良い機会にも成ります。
名古屋高裁の「ねじれ判決」は司法の自殺?(自衛隊イラク派遣) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
先日名古屋高等裁判所で、イラク特措法がらみでの自衛隊派遣の差し止めと慰謝料を求めた市民グループによる訴訟で、原告側の敗訴との判決が出ました。
しかし、主文にて原告側の敗訴が明確になったにもかかわらず、傍論である判決理由の中で「憲法9条への違反」を指摘するという言わば「ねじれ判決」とも言うべき判決でした。
「イラク空自活動の違憲判断」で各紙を比較すれば…。:イザ!
http://hirosec.iza.ne.jp/blog/entry/547309/
私が今回違和感を持ってあえて記事にしようと思ったのは、イラクへの自衛隊派遣の是非ではなく、高裁レベルでこの様な重要な判断が確定してしまうことは司法制度の乱用とも言える行為ではないかと感じられたことにあります。
(現行制度の隙間を利用した「憲法の精神」を踏みにじる行為では?)
実はこのような「ねじれ判決」のケースは、平成16年9月の大阪高裁の小泉首相靖国参拝に対する判決や、過去にも岩手靖国訴訟の仙台高裁判決、中曽根康弘首相(当時)の公式参拝をめぐる訴訟や大阪即位礼・大嘗祭訴訟に対する大阪高裁判決、福岡靖国訴訟の地裁判決などのケースがあるようです。
旬を過ぎましたが、大阪高裁の靖国参拝違憲判決について 思うて学ばざれば則ち殆し
http://kahkun3601.at.webry.info/200510/article_4.html
私がこの件に関して思うのは、今回の高裁判決のように判決と判決文のネジレが容認されて、それで確定判決に出来てしまう裁判制度へ違和感です。
(○○高裁では違憲、□□高裁では合憲という判断がそれぞれ確定する状態が起こることになり、三権のうち「司法権の自殺」とも言えるのでは?)
これは、裁判官や個々の裁判所により判決の分かれる可能性のある高裁レベルの判断で国民による選挙という洗礼を受けた議員による立法府の議決を覆すことが出来るのか?と言う議論にも繋がっていきます。
本来であれば最高裁のレベルでの司法府としての高レベルの判決によって立法府や行政府と対抗すべき物を、一高裁のレベルでの判決でこれ程重要な違憲判断がそれも「ねじれ判決」の形で確定してしまう事に対して深い違和感を感じます。
憲法上の「三権分立」は何のためにある制度かと言うことを考えれば、少なくとも「憲法の精神」としては、言うまでもなく「主権在民国家」を独裁的な権力者から守る為の制度で、三権のうち独立した一つの権力である司法権の乱用であり権威の失落を自らが行っていると言うことではないのでしょうか?
現行制度の中で憲法判断を高裁が行うことに異議はありませんが、憲法の隙間を狙ったこのような高裁レベルの「ねじれ判決」による違憲判断が正当化されるのはどこかおかしいと思います。
「矜持」エーレイライズ(英霊来世)涙がボロボロ止まりませんでした! [旗日には「日の丸」を掲げよう]
先日の記事で書いた「日本人なら瓦屋根」が入ったロックバンド「シナトラ」ファーストアルバム「あっぱれ」をamazonで注文した際に、産経新聞の阿比留記者がBLOGで取りあげて以来ずっと気になっていたラップグループ「エーレイライズ(英霊来世)」の「矜持」を一緒に通販サイトより発注しました。
(amazonや楽天では扱っておらず、もし欲しい方は最末尾のリンク先で注文下さい)
今日はそのCD「矜持」について書かせていただきます。
英霊来世(エーレイライズ)「矜持」
瓦屋根の応援歌「日本人なら瓦屋根」3月12日全国発売!(ロックグループ「シナトラ」デビューアルバム「あっぱれ」)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2008-03-13CDを聴いて不覚にも泣けてきました:イザ!「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」(産経新聞:阿比留瑠比記者のBLOG)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/383514/ブログをきっかけに、こんな年賀状をいただきました:イザ!「国を憂い、われとわが身を甘やかすの記」(産経新聞:阿比留瑠比記者のBLOG)
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/444076/
(安倍元首相や平沼赳夫代議士なども、この曲を聴いて評価していらっしゃるようです)
一昨日家に帰ると、その一枚のCDが届いていました。
早速梱包を解いて聞いてみたいと思いましたが、何せ生後三週間の新生児を含め子供三人に食事を採らせ、お風呂に入れ、寝かしつけなければ話にならず、その日は聞くことが出来ませんでした。
そして、翌朝30分ほどの通勤中に聞こうとエンジンをかけて走り出し、CDを聞き始めました。
まず最初の曲は、演奏のみの「君が代」。
そう、そこまではよかったのです....。
次の曲「矜持(平成19年度版)」が始まり、目を見張りました。
ラップ特有の早いテンポで次々くり出される言葉の一つ一つが、私の心をどんどん揺さぶります。
まるでハンマーか何かで頭を「ドシンドシン」と叩かれてでもいるかのような衝撃を感じました。
そして気がつくと涙が溢れ、運転中にも関わらず前がろくに見えなくなっていました。
「勤労感謝の日」はおかしい?(祝祭日とは?·国民の祝日?·新嘗祭) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
このBLOGでは、開設当初より「旗日には日の丸を掲げよう!」と言うことを書いてきました。
元々は、ワールドカップやオリンピックなどのスポーツ大会の時だけはみなが進んで“日の丸”を賞賛するのに、常日頃はTVや新聞などを見てると“日の丸”が出ていると色眼鏡をかけてみられる事に違和感を感じたことと(スポーツ大会だけ日の丸を賞賛するのは格好悪いことと感じていました)、
今年二歳の長男に「日本の男の子」という感じを伝えたいとの思いで始めた祝祭日の「日の丸」掲揚なのですが、我が家では日常的な光景になっています。
我が家の日の丸
旗日には、日の丸を掲げねば!(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-06-19
昨日「鯉のぼり」をあげました。(屋根には瓦、庭には鯉のぼり、旗日には日の丸)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-04-02
その後、一年を通して巡ってくる様々な祝日の意味を考えたり、季節の移り変わりを感じる上でも大切な行事と感じるようになりました。
「昭和の日」 町内に「日の丸」を掲げた家を見つけました!(旗日には日の丸を掲げよう)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-04-30
「終戦の日」の国旗は、「半旗」が作法。(正式呼称は『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』:「終戦記念日」ではありません!)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-08-11
そんな中で、昨年考えたのが「国民の祝日」の意味でした。
「国民の祝日」って国民のもの?(勤労感謝の日に思う)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-11-23
11月23日「勤労感謝の日」は、戦前は「新嘗祭」と呼ばれて「農作物の恵みに感謝する日」でした。
それが戦後定められた祝日法(国民の祝日に関する法律)では、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことが趣旨としてあげられるようになりました。
「新嘗祭」を元にして英文表記をすると、「Thanks Giving Day」(感謝祭)。
「勤労感謝の日」であれば、「Labor Day」(労働者の日:労働の日?)となり、自らの労働を自ら祝うという意味合いに変わります。
祝日法の「勤労感謝」の日のの定義ではやや解りにくい表現に変わっていますが、勤労はあくまでもたっとぶものであり祝う対象は「大地の恵みとしての農作物や、生産物」、つまりは物やその背景である大地の恵みであるのが、元々のこの日の意義であったと考えています。
この機会に、元々の「新嘗祭」「勤労感謝の日」の意義を再び考える機会にしていただきたいと思います。
(私の理解が違っていたらご指摘下さい。なお我が家のカレンダーの英文表記は「Thanks Giving Day」と成っていました。)
また、元々の祝祭日の意義を考えると、「祝祭日」と言うのは国にとって節目となる日を国民あげて祝うという意味合いで制定されているもので、「祝日法」の定義もこうなっています。
「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」
つまりは、「国民のためにある単なる休日」ではなく、あくまでも「感謝し、又は記念する日を、国民こぞって祝う日」と言うことになります。
一般名称の「国民の祝日」と言う表記は国民の物のように読み取れる表現で、文字面を素直に読めば「国民のものである祝日を国民自身が祝う日」と読み解くことが出来、国民の多くはそんな認識でいるように感じます。
だからこそ、一年のうちに「その日にこそ意義があるはずの祝日」さえ、どうせ休むのならば連休がよいとか言う本質を見失った理屈で無理に連休にしてしまっています。(ハッピーマンデーや祝日の移動など)
東京オリンピックが開かれたことを記念する「体育の日」ですら、日付を変えて連休を作り出すためのカラクリにされています。
米軍は何故、日本に駐留しているのか?(日本を守るためではなく、アメリカの都合:沖縄の基地問題:嘉手納基地:自主防衛) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
先月後半から、このBLOGにアクセス解析を付けました。
それから今に至るまで、主に業界関連の記事を書いてきたこともあり、見ていただいた方々の多くは住宅関連だったのですが、一つとても目立つ組織からのアクセスが相次いだのを見て驚きました。
そっ、そっ、そっ、それは、なんと「米国陸軍」からのものでした。
恐らくは、「終戦の日」関連の記事をどこかで検索して来てくださったのでしょうけれども、アクセス数も1回や2回ではなく、しばらく目をパチクリしていました。
「終戦の日」の国旗は、「半旗」が作法。(正式呼称は『戦没者を追悼し、平和を祈念する日』)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-08-11
せっかくですので、米軍関連の記事をアップします。
記事の内容自体は、有る方のBLOGに私が付けたコメントを増補したものですが、いずれタイミングを見計らってアップしようと保存していたものです。
日本の安全保障の根幹に触れる部分だとも思いますので、ご意見のある方はお気軽にコメント下さい。
十年ほど前、当時タブーとされていた防衛問題を自分なりに咀嚼しておきたいとの考えで、軍事について調べていたことがあります。
その中で自分なりに頓悟したのが、自衛隊と米軍との関係についてでした。
特に沖縄の米軍基地は、日本を守るために駐留しているわけではなく、米国の世界戦略の中で兵站基地としてうってつけの地政学的な条件に位置しているから、駐留しているのだと考えるようになりました。
具体的には米国本土やグアムからは、中東まで無着陸で輸送機は飛べませんが、嘉手納からだと飛ぶことが出来、その為の世界最大の兵站基地(燃料や弾薬の貯蔵量は世界最大で米国本国にもそんな物は存在していません)が存在しているわけです。
(米国が世界戦略を改めない限り、韓国やフィリピンのクラーク基地であったような基地の返還はあり得ません。:前者の基地はあくまでも嘉手納基地の枝葉であり、幹である嘉手納を捨てることはないという意味)
米軍基地に対する日本人の一般的な認識は、「日本を守るために駐留している」と思われていますが、あくまでも米国の世界戦略のためにあるわけであり、その為の場所の提供だけでも同盟国に対する非常に大きな貢献であり、「思いやり予算」などで資金的な援助をする必要はなく、少なくとも財政支援を政治交渉のカードに使える状況にしておかねばなりません。
私個人が思うのは、財政支援は一切やめて、現在米国が行っている活動の幾ばくかを自衛隊が肩代わりすべきだと考えています。
(地元への基地返還ではなく、基地と役割を自衛隊に引き継ぐ)
「終戦の日」の国旗は、「半旗」が作法。(正式呼称は『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』:「終戦記念日」ではありません!) [旗日には「日の丸」を掲げよう]
毎年この時期に思うのは、何故この時期に「終戦の日」があるのか?という不思議さです。
一年中で一番暑いこの時期、そして亡くなられた祖先の霊が帰ってくると言われているこの「お盆」の時期に、偶然か?必然か?「終戦の日」がやってきます。
もはや「終戦の日」が、別の季節にある状況など到底考えられないくらいにぴったり填り、日本の一つの風物詩と言っても良いくらいに年中行事としてとけ込んでいます。
私自身、かつての大戦を自分の身の回りに実際に起こったこととして認識でき、靖国神社や戦没者のことなどを「情」の世界で捉えることが出来たのは、戦没された祖父が毎年この時期に帰ってくることで導かれていたように思われて成りません。
さて、私も昨年の「終戦の日」に初めて知ったことなのであまり偉そうなことは言えませんが、終戦の日の国旗掲揚は戦没者を悼む意味合いで「半旗掲揚」が作法です。(公的機関に対する厚生省よりの通達もあるようです)
半旗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E6%97%97
(家庭用の国旗での半旗掲揚の方法なども書いてあります)
終戦記念日 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%88%A6%E8%A8%98%E5%BF%B5%E6%97%A5
8月15日に某インターで日の丸の半旗
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-08-18
よく考えてみるとすこぶる当然な話で、葬式や法事の日には尾頭付きの鯛や紅白饅頭で祝うのではなく、それなりの作法があるのと同じ事だと「合点」がいきました。
西名阪 香芝PAで撮った半旗に差し替えます(8/18 )
「終戦の日」の呼称についても、正式名称は「終戦記念日」ではなく『戦歿者を追悼し平和を祈念する日』であり、一部の公文書や法律などでは単なる「終戦日」との表記になっています。(決して記念する日ではありません)
(詳しくは、上記Wikipediaを参照そてください)