「愛情や思いやりは登山の敵?」「危ないところで人は死なない。安全なところで事故は起こる」 [我が青春の「山登り」]
山登りの危ない話、第2弾です。
前回の記事で、恥ずかしながら昔自分自身が経験した「積雪期の八ヶ岳での大滑落」を危険判断の出来ない初心者が陥る事故として紹介させていただきましたが、他にも事故となるのを未然に防ぐことこそ出来はしましたが幾つかの「血の凍る事件」などを経験しています。
ものはついでと言うことで、自分自身が経験した危ない思いや間近で見た遭難事例を書かせていただきます。
雪山での滑落経験(高度差300mの大滑落・十数年前のGW登山での事故・八ヶ岳・雪洞)
http://kawaraya-taisei.blog.so-net.ne.jp/2008-05-26
「危ないところで人は死なない」
岩場の登高(空身の撮影用やらせです)
一般の印象では、登山の遭難事故は危険な場所で起こるものだと捉えていらっしゃる方が多いように思いますが、私自身は「危ないところでは事故は起こらない」従って「人が死ぬことはない」との強い印象を持っています。
実際に十数人の登山未経験者を山に連れて行きましたが、危険な箇所になると起こる変化は皆同じです。
足がすくんだり、渾身の力で岩にしがみつき身動きできなくなることはあっても、落ちることは絶対にありません。
そのうち誰かが助けてくれますので、初心者であろうが危険判断の出来るベテランであろうが、危険な場所や悪場では意外なほど遭難事故は起こらないものです。
眼下に見下ろす大キレット(一旦バランスを崩すと数百mは遮るものがないナイフリッジと言われる危険な稜線で、一般縦走路の中ではもっとも危険と言われていますが、こんな場所ではまず事故は起こりません。もっともここの場合は、天候の急変などで逃げるためのエスケープルートがほとんど無く、それにより実力を超えた無理な登高をせざる終えない場合には事故が起こります。)
むしろ危険なのが、危険箇所が終わって安全が確認できる休憩場所。
「ホッと息を抜き、荷物を背中から降ろそうとした瞬間にバランスを崩す。」
これが実は一番危なく、間近に見た遭難事例の大半はこのケースで起こっています。
同じ山域で滑落事故が起こると、岩と一緒に人が落ちていく音が聞こえやがて県警による山岳救助隊のヘリが来て遭難者の収容に当たります。(経費は1時間50万円と聞きました)
こんな休憩場所だけならば安心なのですが...。
ほとんどの場合縦走路上の事故ですので、登山道の尾根道を歩いていくと事故現場に差し掛かりますが(収容中の場合もあります)、どう考えても危険とは思われない場所で遭難していて目撃者の話を聞くと「休憩前後の気を抜いた瞬間の出来事だった」と同じ答えが返ってきます。
自動車事故や仕事の上の事故でも同様で、初心者の頃は何をするのにも注意を払いますが、中途半端に慣れた頃のふと気を抜いた瞬間というのが一番事故の多発する時期ではないでしょうか?(危険判断が出来ない事による事故は別の要素ですが。)
この写真のバックにあるような尾根を歩くわけですが...。
よく考えると前の記事で紹介した滑落事故も、休憩場所でもある山頂が見え始めて「気を抜いた瞬間の事故」だったように思えますし、たまたま事故にこそ成ってはいませんが思い当たることも随分あり、気を抜く瞬間の挙措動作に注意を払うようになりました。
(夏山の遭難の大半は、こんなケースと、落石や落雷、道に迷うなどの危険予測の部類に入るものです。こういう事の積み重ねが「危険判断が出来る」「経験を積む」と言うことだと感じています。)
「愛情や思いやりは、登山の敵」
10年ほど前その夏の登山計画を立てていたら、弟分として普段一緒に行動していたカップルから「登山は始めてだけど、参加したい」との申し出があり、いつも山に行く友人と合計6人のパーティで白馬岳から唐松岳までの縦走をしたことがあります。
このときの登山メンバー(撮影者が写っていません)
私としても山仲間を増やしたい思いで、毎年何人かの初心者を連れて山に入っていたことも有り気軽に考え山に入ったのですが、カップルの存在は実に脅威でした。
(体育会系の二人のカップルで、良くありがちなイチャイチャしていて困ったとか言う話ではありません)。
カップルですので、当然の事ながら恋愛感情や思いやりが双方の心を支配しており、ちょっと何か危ない場面や体力的に辛い局面に差し掛かると、男の方から無意識に手を差し出し彼女を助けようとします。
(これ自体は大変美しい行動であり、光景です。但しそれが山でなかったら...。)
雪山での滑落経験(高度差300mの大滑落・十数年前のGW登山での事故・八ヶ岳・雪洞) [我が青春の「山登り」]
前に一度記事を書いたことがありますが、20代前半から30代半ばまで山登りに情熱を燃やし(うつつをぬかし?)、休日の度に山に入っていた頃があります。
GWはまだ雪山です(穂高-涸沢)
とは言っても当時は普通のサラリーマンでしたので、山に入れる連休はそれほどあるわけではなく、ゴールデンウイークと7月20日前後の夏休み、お盆休み、秋はその年の曜日回りにより秋分の日・体育の日・文化の日のいずれかが絡んだ三連休、そして正月休みの5回に限られていました。
20代の頃はそんな連休の大半を山登りで過ごしていましたが、正月のスキーや、カヌーによる川下り(基本的にテントを積んでツアーです)、海辺での磯遊びなども覚え、30代になって実際に登っていたのは、ゴールデンウィークとお盆休み・秋の連休の3回程度が定例と言ったところに落ち着いていました。
山を始めてまだ数年のまだ経験も浅い当時は、今思い起こせば危険判断能力が全くなく、今は危険と判断して出来ない行動を平気でとることが出来ていましたし、当然留意すべき注意点が知識の上で頭に入っていても身についてはおらず危ない経験を幾つか味わう羽目となりました。
山を始めて3年後だったと思いますが、積雪期の山に行きたいと言うことでゴールデンウィークに登った八ヶ岳で大きな滑落事故を経験しました。
(フィルムカメラで撮った写真を、昔HP用にスキャナーで拾った画像データーなので、写真があまり良くないのはご容赦下さい)
その時の計画は、八ヶ岳連峰内懐の行者小屋のテント場にベースキャンプ用の天幕を張り、主峰赤岳をはじめとする山々に往復登山を繰り返そうという計画で、私と友人の積雪期の登山経験がない二人による登山でした。
青印が滑落現場
テントの中で一夜を過ごし、翌朝まず登った先が阿弥陀岳(2805m)。
当然雪の上の登山ですので、滑らないように登山靴にアイゼンと言われる12本歯の着脱式のスパイクをつけて行動開始です。
アイゼン(当時この写真のようなアンチスノープレートはありません)
アイゼン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3
出発直後しばらくは、締まった雪にアイゼンが良く効き快適な登高が続きました。
標高を稼ぎ、やがて赤岳と中岳のコル(最低鞍部:山の間の低くなったところ)に出た辺りから状況は一変します。
ジグザグに斜面を登ってゆく夏道は完全に雪に埋まり急斜面の直登というルートで、締まっていたはずの雪面が日の光で暖まり、ザラメ上になった雪がアイゼンの歯の間にくっつき、油断するととても滑りやすい状況になっていました。
こういう状況では2・3歩登る毎に手に持ったピッケルでアイゼンを叩き、滑る前に雪をその都度落としながらの登高となります。
そして少しでも経験が深く強い者がしんがりを努めるという事で、友人が先頭でその後に私という順で慎重に高度を稼ぎ始めました。
天気の良いときはこんな軽装です(立山-室堂付近)
小一時間ほど登り、山頂までの斜面の3/4程登り先が見えてきた頃に、先頭の友人が足を滑らせバランスを崩しました。
後を登っていた私は、友人が足を滑らせたのを支えようとしたら、私の方も巻き込まれてバランスを崩してしまいました。
後のことはあまり記憶がありません。
とにかく滑落中は自分が落ちているという実感がほとんど無く、雪煙を立てながら落下する友人のことばかり考えていました。
稜線を外れた斜面の下の方には岩場もあり、このままそこまで滑落してしまったらどう考えても無事に下山というわけにはいきません。
友人がもしもそこまで落下し、生命に差し障るような事態となった場合に彼の家族にどんな顔をして話をすればよいのか?
そんなことばかりを考えていたように思います。
そう、自分自身も滑落していると言うことを全く忘れて....。
我が青春の穂高岳 [我が青春の「山登り」]
穂高という山に、特別な思い入れがあります。
私が山登りを始めたのは、まだ十代の頃
書店でたまたま手にした写真集に雄大な山岳の姿を発見し、日本にこんなところがあるのなら、自分のこの目で見てみたいと思ったのがきっかけでした。
まわりに山登りの経験のある人が一人もいなかったので、書店で技術書を買い、登山用品店に通い、ベテランの登山者に「シロートがこんなとこには来ちゃ行けないんだ」と言われるのが怖くて、恐る恐る一人でテントをかついで夏山-表銀座縦走コースの起点、燕岳に入ったのを今でも思い出します。
(周りの人たちが皆ベテランに見え、カッコ良かったなぁー)
その頃の私
その時からずっと穂高岳を意識していました。
山岳ガイドの本を見ると、どの本を見ても穂高が絡む山旅はすべて上級者向けのコースだと書いてあり、写真で見る日本離れした景観とあいまって、いつか自分もこの山にはいることが出来るのだろうか?と憧憬の目で見ていました。
サラリーマンでしたので、毎年1~2回の山旅をこなし、そろそろ行けるようになったのではないか?と思って上高地に入山したのは山を始めてから4年後のことでしたが、あいにく台風の発生と重なって果たせなかったりもあって、ますます穂高への思いは募ってゆきました。
ジャンダルム
梓川を遡上し、初めて穂高の内懐である涸沢に入った時、不覚にも涙かこぼれました。
写真集などでいつも見慣れたはずの風景なのに、「日本にこんな風景が、本当にあったのか!」「やっと、穂高にはいることが出来た!」そんな思いが、胸をいっぱいにしたのだと思います。