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「愛国心」「アイデンティティ」の源泉は『情』!? [旗日には「日の丸」を掲げよう]

 私は「愛国心」や「アイデンティティ」「ナショナリズム」というものは、理念やイデオロギーではなくて人間として本来持っている「情」に即したものではないかと考えています。

 すなわち、世界有数の経済大国であり、○○や○○などの歴史を持ち、思想・文化が素晴らしく、○○○など優れているから“素晴らしい国”なのであり、だからこそ「愛国心」や「アイデンティティ」を感じるのではなく、  もっと純粋に「日本に生まれ、日本に育ったから、自らの属する日本に対して愛国心やアイデンティティを感じる」のであって、「後付けで素晴らしい理由を探したら、歴史や、国際的な地位や、思想文化があったに過ぎない」のではないか?ということです。

 人間誰しも、「自分自身」を愛する気持ちがあると思います。  そして、自分自身が属する「家族」や「地域」にも、他とは違った愛情を感じているはずです。  その延長線上には、出身地に対する「自分の県」や「国」に対する思いも、自然な情念として育っているのが普通ではないでしょうか? (『情』を基調とした「自己愛」の延長線上に「家族愛」「地域愛」や「愛国心」があるのではないかという意味です。)

「もし日本が情けない国だったら愛国心を感じないか?」自問自答してみてください。

 現に私は、日本に生まれずどこかの弱小国に生まれたとしても、その国に対してアイデンティティを感じるであろうと思っています。

 また、日本が素晴らしい国であって欲しいという願望から、どう素晴らしい国かを納得したい思いで、本や新聞・雑誌、はたまたNETなどのメディアを使って、情報の取捨選択を知らず知らずしているのではないか?と、自分自身に対して疑念を持つ瞬間さえ有ります。 (情報が巷に満ちあふれており、好きな情報のみを、いかようにも取捨選択することが出来ます)

 「韓国・北朝鮮や中国に、もし生まれていればどうでしょう?」

 おそらくは、自分の生まれた国に「アイデンティティ」を感じ、素晴らしい国であって欲しいという思いからメディアに流れる情報の中で自分に都合の良い情報を取捨選択し、今の私たち日本人から見れば常識外れのことを唱える一人になっているような気がします。 (自分にとって居心地の良い情報や論理を捨て去ることは、そう簡単にはできません。)

 

 先日の金美齢さんの講演で、「日本に生まれてきたことの幸せを考えなさい」という視点をいただきました。  「私は、日本に生まれてきて本当に良かった」と心より思っています。

 これは、「情」によって育まれた「アイデンティティ」が、堅牢かつ正確な客観的事実に基づいた国力・風土・国民性・歴史をもって論理構築できる、数少ない国の一つだからでもあります。(嘘で塗り固める必用がありませんので....。)

 歴史については、正確かつ堅牢な客観的事実ではないと言う意見もあろうかと思いますが、両論に分かれた議論が公開の場で行われているという意味で、前述の国々とは明らかに情報の精度が異なります。 (逆に言うと、自らを貶めるような情報がこれだけあふれている国は、世界中どこに行っても存在していません)

BLOG「金美齢さん講演会」に行ってきました
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-07-01

 

 「アイデンティティ」を考える上で、もう一つの重要な視点は、日本は「国土」「民族」「宗教」「言語」「歴史」という、国を割る可能性のある境界線が地政学的に見てほとんど同一という、「世界中の国でもほとんど希有な条件に恵まれている」事です。

 つまり、日本に住む大部分の人は自らが日本人であることを疑う必要が無く(日本人とは何か?考える必要すらほとんど無い)、自然に日本人であるという感情を共有できることです。

 自らの日本人としての本質に自信があるからこそ、道具として仏教や儒教、明治維新後は洋学を受け入れることが実に容易に出来たわけですし、実際に受け入れた後も日本人としての本質は何ら揺らいではいないではないですか?

 ただ、日本人であるという事実を疑う必用がないという希有な条件が、アイデンティティという他国との接触によって磨かれる感覚を育てるのを邪魔する要素にもなっています。

 自分とは異質な人たちとの接触の場が、個人レベルではほとんど無く、日本人であると言うことを意識する必用がほとんどありません。 (たとえて言うと、愛知県民としてのアイデンティティは、他県の人の中に入って初めて感じるのであり、愛知県から出ないままでは、もっと小さい郷土意識までしか感じられないのではありませんか?)

 サッカーの中田選手にしろ、野球のイチロー選手にしろ、国内のリーグに所属しているうちは、代表の試合でもまともに「君が代」が歌えなかったのに、海外のリーグに移籍し自分とは異質な環境に身を置くようになると強く日本を意識し、大きく口を開いて「君が代」を歌うようにもなっています。

 これらはすべて「情」の発露であり、やはり「アイデンティティ」の源泉はイデオロギーでも理念でもなく「自己愛」の延長線上にある『情』だと言えるのではないでしょうか!?

 イデオロギーめいた「愛国心」や「アイデンティティ」を巡る論争に、なにやら違和感を感じる今日この頃です....。

BLOG 旗日には、日の丸を揚げねば....。
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-06-19

BLOG 地元の靖国神社遙拝所
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2006-06-24


 

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コメント 14

アキラ

私には「古里」がありません。4歳で満州から初来日、その後は父の転勤に付いて廻って、小学校5校・中学校2校・・・・そのため県や市などへの郷土愛みたいなものは、私にはありません。
しかし、日本(にほんではなく、にっぽん)人としての『誇』だけは持っています。
最近思うのですが、国際試合や野球の開幕戦で「君が代」を人前で歌う方、間違って歌ってるのを気づいてますか?
「千代に八千代に」「さざれ石の」は、途中で息を継いではいけないのです。
特に、さざれいしは細かな石と言う意味ですから、切ってしまったら、意味が通じません。
学校では、本来こんな事を教えるべきだと思うんですがネー。
理屈は兎も角、ニッポン人としての誇を大事にしてもらいたいと思います。
by アキラ (2006-07-11 09:19) 

たいせい

 コメント遅れて申し訳ありません。
 満州生まれの方は、気宇壮大で、凛とした雰囲気を持っていらっしゃると言うイメージを持っています。
 指揮者の小澤征爾さん、数学者の藤原正彦さん(著書:国家の品格etc.)、そしてアキラさん。
 私の場合、歴史の風雪を経ておらず『誇』を語ることは到底出来ませんが、いつか日本人(にっぽんじん)としての『誇』を胸にしたいです。

PS.
 さざれ石ですが、岐阜県に「君が代」の元になった「さざれ石」が実際にあるようです。
 もし宜しかったら、こちらのHPものぞいてみてください。

さざれ石-いぐちまさのぶHP「マイケム」
http://www.michem.jp/last%20images(return%20to%20top%20page)/sazareisi.html

ほんとうの「さざれ石」の話-いぐちまさのぶHP「マイケム」
http://www.michem.jp/2002/02091102.html

いぐちまさのぶHP「マイケム」
この方は、名古屋市内の大学の元大学教授です。
http://www.michem.jp/
by たいせい (2006-07-14 17:37) 

hoihoihoi

 ご趣旨に全面的に賛同します。移動経済学というのがあるそうですが、ある国で工場を作った場合、材料の調達、製品の積み出し、船がもっとも経済的だそうです。日本はすべてを海に囲まれ、どこに工場を作っても海岸はすぐ近く、ベルトコンベアー国家とも言われるとか。中国、アメリカは広すぎるため、海や船の便の良いところにしか工場を建てられrません。すると、海岸線だけは栄えるのですが、内陸部は無駄となる。確かにそのような印象の事件が多発しています。
by hoihoihoi (2007-03-24 13:15) 

たいせい

 hoihoihoiさん、古い記事をTBしてしまいご迷惑をお掛けしました。
 この記事は、「日本人は何故日本人なのだ?」「どこが日本人なのだ?」、「大陸にあったら今のままの日本人なのだろうか?」など、訳のわからない志向の果てに辿り着いたところであり、自分自身とても愛着がある記事です。

 ご賛同下さりありがとうございました!
by たいせい (2007-03-27 17:55) 

hoihoihoi

 北朝鮮、共産党中国など、あちこちさがしてもいいところが見つからない、でも愛国心を見せ続けないとヤバイ、というのも疲れるでしょうね。
 個人的な体験ですが、もっと若い頃英国で二年ほど暮らし、愛国心が増大すると同時に、かの地の素晴らしさをも学びました。比較文化論の実感といったことでしょうか。両国ともヨーロッパ文化圏と中国文化圏から海を隔て直接影響がないこと、自主独立の国であること、高度な文化を持つこと、教育と科学技術レベルが非常に高いこと、それと武士道に対するプロテスタンティズム、などが理由かと思います。お述べになっている内容は、とても普遍的で、発表は古くても、内容は事実として古くなることはない、などと感じました。今後ともよろしく。
by hoihoihoi (2008-02-19 18:00) 

たいせい

 hoihoihoiさん、恐らく前にTBを送らせていただいていたのに気づかず再度TBを送っていたようで失礼いたしました。
 この記事を書いた時期からは既に1年半が経ちましたが、いまだ愛着を強く持っている記事で考え方自体に些かの揺るぎもありません。
 当時から今でも思うのが、特にnet上の議論は等身大の自分自身とかけ離れた理念や理屈の世界での応酬がほとんどで、「情」の観点や、hoihoihoiさんがやっていらっしゃるような食生活を通し自ら感じるところをスタートにした「切れば血の出る話」というのがほとんど無いように感じています。
 「食文化」の記事、またそこから垣間見られる深い「日本への愛情」、本当に楽しみにしています。
 今後ともよろしくお願いいたします!
by たいせい (2008-02-20 09:42) 

milesta

TBありがとうございます。
全く仰るとおりですね。「情」は理屈でなく湧き出てくるもので、こんなに正直なものはありませんね。
それに、日本はアイデンティティーを意識する機会がないというのもその通りですね。地球市民という発想は、地球を知らないからこそでてくるのではないかと思います。
by milesta (2008-02-29 12:49) 

たいせい

 milestaさん、これはとある団体に交わっていた頃、ほとんど人工的に作り出された理念や議論のための議論を積み重ねている様に思われ、何やら違和感を感じた当時に考えた物をまとめた記事です。
 国旗国歌の話や国家観の話など、妙な理屈を積み重ねるのではなく「情」で考えれば単純に解けることが多いように思っています。
 それにしても日本は、世界中でも希有な地政学的な条件に恵まれた本当に「幸せな国」ですね!

 コメント、ありがとうございました!
by たいせい (2008-03-01 15:43) 

わたし

「私たち日本人から見れば常識外れのことを唱える一人になっているような」
と、いうところには、なにかしらの、あくいがかんじられます。
by わたし (2009-01-27 22:44) 

たいせい

 わたしさん、事の是非については様々な意見があるやもしれませんが、私にとって常識外れと思われる事を言っている方達が多いとの感想を持ってこの文言を書いています。
 ただこの記事の意図としてはその部分にはなく、愛国心やアイデンティティは理念やイデオロギーの延長にあるものではないのではないか?という、ふとした疑問から発した自分なりの答えを書いたものです。

 コメント、ありがとうございました!
by たいせい (2009-01-28 11:15) 

わたし

すみませんでした。被害妄想でした。
by わたし (2009-01-28 18:36) 

たいせい

 わたしさん、このBLOGでは「雑記帳」の表題通り、国の話から仕事の話子育てに至るまで日常的に思いつくままを綴っていますが、基本は等身大の自分が思うことと言うことでマスコミ論調や世の中の様々な議論とは少し違う立脚点で書いているつもりです。
 反対意見もスポイルするつもりは今のところ無く、基本的には歓迎しています。(コメント等も一部スパムと思われる物以外削除したことはありません。)
 理念上の論争になると、本来の議論を通り越して最終的には不毛な感情対立になることを実生活上でも何度か経験していることもあり、私とは意見が違うコメントについては互いの相違点をハッキリさせる事が出来ればそれで良いとの考えでコメントを変えさせていただいていますので、何かまた気がつくところがあれば遠慮無くコメントいただければと思います。

 再度のコメント、ありがとうございました!
by たいせい (2009-01-29 09:03) 

わたし

たぶん、これが、最後です。わたくしなりに、考えました。たいせいさんのコメントを聞いていて、ハッと、しました。これは、わたくしなりの、考えなんですが、意見が違うということは、違う世界に生きているんだなあ。
by わたし (2009-01-29 15:52) 

たいせい

 わたしさん、上のコメントの最後から二行目「コメントを変えさせて」は「コメントを返させて」の間違いでした。申し訳ありません。
 意見が違うと言うことについて私が感じてきたのは、一旦理屈の世界で表面上納得させたとしてもほとんどの場合、日を改めて別の理屈で再燃する場合がほとんどだということです。
 これは理屈で一旦納得したとしてもその件についてそれぞれの感覚や勘の部分で違和感を感じ、感覚や勘に基づいた情報収集をして新たなる論拠を得ることに依るのではないかと思っています。
 つまり意見というものの多くは、最初感覚的に是非について判断をして、次にその感覚を証明するために(論理構築するために)材料を集めるような気すらしており、「愛国心」や「アイデンティティ」は論理の世界ではなく「情の世界」にあるのではないか?という、この記事で一番訴えたかった部分と重なってくるものでもあります。
(勿論私自身についても言えることです。)
 議論は高じると次第に不毛になってしまい、コメントのやり取りは論点の整理で留めようと思っている理由はその辺りです。

 再々度のコメントありがとうございました。
 最後と仰らずに、また別の記事にでもコメント下されば嬉しく思います。

by たいせい (2009-01-29 17:52) 

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